
UEDA Naoki
第2の故郷・佐賀で結果を残す
安定した技を繰り出し続け、〝3度目〟の正直で銀メダルという結果を残した。体操成年男子の上田直樹(チームSSP)は近藤衛(同)とともに両エースとしての役割を果たし、県勢過去最高位となる2位に輝くと、最高の笑顔と同時に安どの表情を浮かべた。主力として「個人84点以上」を掲げた中、あん馬、跳馬、平行棒、鉄棒の4種目で14点台を記録し、チームトップの84.365点をマーク。最大の目標とする大会と覚悟を決めて臨んだ大会は記憶にも記録にも残る大会になった。
大阪府出身。5歳の頃から体操に打ち込み、小学1年からは競技力向上を目指した「選手コース」で汗を流した。小学6年生で挑んだ全日本ジュニア選手権(Bクラス)で個人種目別の跳馬で頂点に立ち、個人総合でも7位に入った。「少しずつ技ができるようになって楽しくなっていった」。競技にのめり込むと、中学の全国大会でも結果を残し、五輪選手を多く輩出した強豪・清風高の門を叩いた。周囲よりも身長が高かった上田は「筋力が足りていなかった」と1年秋に腰のヘルニアで手術をした。リハビリと体幹トレーニングを徹底して体を作り直した。そのことで技の安定感が増した。
高校3年で全国総体団体と岩手国体で準優勝に貢献し、全国の猛者が集まる鹿屋体育大でしのぎを削った。さらにレベルを向上させ、4年の秋には全国大会で団体2位に入り、個人の種目別でも平行棒と鉄棒で入賞を手にした。大学を卒業した2021年。国スポでの上位入賞を目指す「チーム佐賀」の一員になった。
高校のけが以降は順調に競技人生を送ってきたが、佐賀に来てすぐに左足アキレス腱断裂の大けがを負った。「国体のために来ているのに何をやっているんだろう」。ふがいなさだけが残ったが、この年の三重国体は中止が決まっていた。まずは22年の栃木国体で結果を残すために、復帰後を見据えて再び体幹を鍛え直し、基礎練習に没頭した。
諦めない気持ちを神様は見捨てなかった。栃木国体では主力としてけん引し、成年男子の県勢初入賞に大きく貢献した。さらに、翌23年の鹿児島国体でも8位に入った。ただ、鹿児島国体の結果には満足していない。「一人一人が持っている力を最大限に発揮できれば結果はついてくるはず」。上位を目指した鹿児島国体での悔しさを胸に刻み、結果だけが求められた佐賀国スポに向けて猛練習に取り組んだ。
国スポ後も佐賀に残ることは早い段階で決めていた。「佐賀県の先生たちや周りの人々の温かさを常に感じていた」。県外から来た自分を迎え入れてくれた包容力に惹かれていったが、2大会連続8位に危機感は感じていた。「やばいかもしれないなと思うことはあった」。本当に結果で佐賀県に恩返しができるのか。自問自答している暇はなかった。「やるからには日本一だけを目指す。目標をぶらすことなく日々頑張るしかなかった」。
全ての種目の先陣を切って臨んだ佐賀国スポ。大会最初の種目になったが、臆する気持ちはなかった。8月下旬の佐賀国スポ結団式。全ての種目の選手たちが集結したSAGAアリーナ(佐賀市)で決意を述べた。「全員がいい演技を出し切って、自分たちの後に続く競技に流れをつなげたい」。その言葉通り、最高の形でスタートを切った。
「みんな緊張していたけど『楽しもう』と声をかけ続けた」。まるで地鳴りのような大声援を背に受けた。結果は銀メダル。「やってきてよかったな」という満足感と同時に「1年目でけががあったにもかかわらず、佐賀のみなさんが見捨てずに残してくれたからこその結果」と感謝の気持ちがこみ上げた。
「佐賀国スポのために来たと言っても過言ではない」。これからの競技人生でも結果は求められるが「体操を楽しまなければ結果はついてこない」と重圧を感じるよりも、自らの演技を追求していく。その先に「日本代表に入れたらな」と白い歯を見せる。
4月からは鳥栖高で長年始動してきた龍富貴夫さんらとともに、白石町で「Dragoing Sports」で指導者としても携わっていく。「体操の楽しさを子どもたちに教え、広めていきたい。佐賀の体操界を盛り上げて強い選手の育成に関わっていければ」。愛着が湧いた〝第2の故郷〟で新たなスタートを切る。
上田 直樹 選手
競技:体操
うえだ なおき
1998年4月6日生まれ。大阪府出身。5歳から地元のクラブで競技を始め、清風高(大阪)で技術力を高めた。高校3年では全国総体団体と国体での準優勝を経験。鹿屋体育大でレベルアップを図り、団体2位や個人種目での入賞をつかんだ。2021年からチームSSPに所属し、22年の栃木国体と23年の鹿児島国体で8位入賞、24年9月の佐賀国スポでは堂々の準優勝を飾った。