3度目の五輪、ロスでメダル挑戦
ホッケー女子日本代表「さくらジャパン」のメンバーとして、東京五輪、パリ五輪と2度の大舞台を経験した鳥山麻衣選手。30歳を迎えてプレーに円熟味が増したが現状に満足しているわけではない。2025年春には実業団の名門・南都銀行を退団して、発足したばかりのクラブチーム「岐阜朝日BlueBees」に移籍。新たな環境に身を置き、自身のキャリアの集大成と語るロサンゼルス五輪へ照準を定めている。
ホッケーを始めたのは小学4年生。地元・伊万里市のクラブチームの体験会で初めてプレーした。シュートを決めたのか、ドリブルが上手にできたのか、理由ははっきりと覚えていないが「とにかくめちゃくちゃ楽しかった」と振り返る。クラブには「同級生が多く、ほかの学年と比べても強い世代だった。周りに恵まれていたと思う」という。
アジアカップでファーストキャップ
伊万里中でも同クラブに所属し、九州大会優勝や全中出場などを経験。中学3年時にはU16代表に選ばれ、オーストラリアに遠征した。初めての代表だったが、「プレッシャーがまったくない状態だったので、思った以上のプレーができ、点数も決めた」と振り返る。伊万里商業高では全国大会にコンスタントに出場し、高校2年時には飛び級でU18代表に選ばれ韓国に遠征した。ただその遠征では「本当に何もできなかった」という。「代表内でも劣っていたし、試合に出てもフィジカルで負けてプレーさせてもらえなかった」と初めてホッケーで挫折を味わい、悔しくて帰国便の中で涙を流した。
大学は東海学院大に進学。高校時代とはまた違った厳しさの中、シニア代表に選ばれた二つ上の先輩に憧れた。その先輩がリオデジャネイロ五輪に出場したことから、初めて「五輪選手になりたいと思った」と明かす。そこからは「少しでもうまくなりたい」「試合に出たい」との思いが強くなり、大学3年時にはシニア代表候補に選ばれ、大学がある岐阜県で開催されたアジアカップがファーストキャップとなった。
2度の五輪の悔しさ、ロスで晴らす
南都銀行時代は「会社に守られ、不自由なくホッケーに集中できた」。社会人1年目から2年目にかけ、代表から外れる時期があったが、悔しさをバネにシュート力強化を意識し、毎日100本のシュート練習や毎試合1得点の目標を自らに課した。徐々に結果が出始めると、再び代表に招集されるようになった。
だが、2020年3月にコロナ禍による東京五輪の1年延期が決まった。ほかの代表選手たちが残念がる一方、「自分にとってはチャンスだと思った。鍛える時間がある」。毎日ひたすらホッケーの事だけを考え、東京五輪への出場を果たした。五輪後は1シーズン、オランダへのホッケー留学を経験。慣れないオランダ語でコミュニケーションをとる中、自分の意思をきちんと伝える大切さ改めて感じたという。パリ五輪の選考前の大事な時期にはギックリ腰になるピンチもあったが、それまでの実績を踏まえ、代表に選出された。
現在は発足したばかりの「岐阜朝日BlueBees」にプレーの場を移した。移籍理由は「自分を成長させてくれるから」。五輪ではこれまで1勝しかできず、個人としても1得点止まり。五輪の悔しい思いは五輪でしか返せない。目標は競技人生の集大成と位置づけるロサンゼルス五輪。「メダルは大前提。東京、パリと悔しい思いをしてきたので、チャンスで決めきれる選手になりたい」と力強く語った。