OGATA Haine

毎日、自分のベストを

高校2年の決意

 生まれたころから、祖父がテニスクラブ「ウィンブルドン九州(現・グラスコート佐賀テニスクラブ)」の創設者だったこともあり、テニスはとても身近なものだった。ただ、ラケットを手にしたのは10歳。プロ選手としては少し遅い感じもするが、「両親が、自分からテニスをしたいというまで無理に進めなかったからだろう」と振り返る。
 ただ、一度決めたらやり通すタイプ。地道な練習で力をつけた。だが、さまざまな大会や合宿に参加する中で、プロになるためには、放課後にクラブに通うだけでは練習量が絶対的に足りないことを自覚する。「四大大会を目指すためにも、テニスに集中したい」。高校2年の途中で佐賀を離れ、兵庫県のテニスラボに活動の拠点を移した。ここにはプロで活躍した日本を代表する指導者や、同じ志を持つ仲間がいた。

プロ転向と、初めての休養

 テニスにプロテストはないが、一般的に国内ランキング100位以内で、プロ転向を宣言した選手がプロの資格を持つとみなされる。そして2015年5月、プロテニスプレーヤーの緒方葉台子が誕生した。
ただ、プロテニス選手の生活は過酷だ。1回の試合は予選なども含め約1週間。それを国内外合わせて30回ほどこなし、移動や宿泊の手配もすべて一人で行う。もちろん費用は自己負担。その上、トレーニングを続け、さらなるレベルアップを目指す。
 力強いフォアハンドを武器に、シングルスの国内最高ランキングを49位まで押し上げ、ダブルスは36位にまでなった。メキシコやトルコなどの大会では、ダブルスで優勝するなど結果も出ていた。だが目標としていた四大大会には、なかなか手が届かなかった。2019年に入るとコロナ禍で多くのツアーが中止となり、活動も制限される日々が続いた。そして2022年の5月ごろ、格下の相手に負けるなどモチベーションの低下を感じ、ついにテニスから離れた。
 日常にテニスがない、いわゆる普通の生活をする中でアルバイトも経験した。初めてとも言える仕事を通じて、理不尽な出来事にも遭遇した。難しい日々を過ごす中で、これまでテニスに集中できてきた自分が、いかに恵まれた環境にいたのかに気づいた。そんなとき、地元の佐賀から「とちぎ国体に出ないか」と声をかけられた。だが、大会は約1カ月後に迫っていた。

声援を力に変え、地元に恩返し

 1カ月でどこまで力が戻るかは分からなかったが、「頑張れ」という声援が、純粋に嬉しかった。心に染みた。結果は6位。最低限の仕事はできたと感じた。このとき「2024年の佐賀国スポで結果を出す」ことが目標になった。「感謝の気持ちをコートで出すことが、プロとしての仕事」と、いまは自信を持って言える。
 若い選手に対して、「言葉でアドバイスすることは得意ではない」。ただ、毎日のトレーニングで手を抜かず、常にベストを尽くす姿勢はきっと伝わるはずだ。「現役選手にしかできないことが、きっとあると思うから」。佐賀国スポの舞台で、深みを増したプレーで大輪の花を咲かせる日が、きっと来ると信じている。

緒方 葉台子 選手

競技:テニス

おがた はいね

1993年8月29日生まれ。佐賀市のグラスコート佐賀テニスクラブで10歳からテニスを始める。高校2年からテニスラボ(兵庫県)に拠点を移し、2015年にプロ転向。国内外のツアーで活躍する。ダブルスでは、メキシコやトルコなどの海外ツアーで優勝した。2021年佐賀市出身。