MATSUMOTO Fumika

再び世界の舞台へ、新天地・佐賀から挑戦

小さな体を生かした戦い

 スイム・バイク・ラン(水泳・自転車・長距離走)を連続して行うトライアスロン。「鉄人レース(アイアンマンレース)」が思い浮かぶが、オリンピックや国体など多くの大会ではスイム1・5キロ、バイク40キロ、ラン10キロの「スタンダードディスタンス(オリンピックディスタンス)」で行われ、エリート選手はおおむね2時間程度でゴールする。3種目それぞれの力配分やレース運びなど高度な戦略が求められ、近年、アマチュアも含め競技者が増えている。ちなみに、鉄人レースはスイム3・86キロ、バイク180キロ、ラン42・195キロで10時間を越える大変過酷なレースだ。
 身長150センチの松本選手は、大柄な選手が多い海外勢と並ぶとひときわ小さく見えるが、「小さいなりの利点がある」という。特にスイムとバイクでは、大きな選手の後にできる水と空気の「流れ」に乗ることで体力を温存できるなどのメリットがあり、特に大柄な選手が多い海外勢との戦いで勝利してきた実績が、戦略的な戦いを得意とする松本の強さを証明している。

出会いは偶然、そして急成長

 学生時代から陸上の選手だった父親の影響で、小さいころから体を動かすこと、特に走ることが好きだった。小学校から陸上部に入り、中学校でも続けるつもりだったが、進学先に陸上部がなかった。何をしようと思った時に、近所にトライアスロンクラブが立ち上がることを耳にし、「なんだか面白そう」とクラブに足を運んだことがきっかけだった。
 最初は泳ぎが得意でなかったこともあり、レースは「苦しいだけだった」と言うが、スイムのレベルが上がるにつれ、成績も向上。中学2年のU-15選手権ではディアスロン(バイク、ランのみ)で優勝、中学3年の同大会ではトライアスロン2位になるなど年代別で国内トップクラスに躍り出た。そして高校2年だった2012年、アジアジュニア選手権で1位になると、その勢いで世界ジュニア選手権(ニュージーランド・オークランド)で日本人初の優勝を成し遂げた。トップ選手が競うU-19以上の世界選手権で優勝した日本人は松本選手ただ1人だけという快挙で、その記録はいまでも破られていない。

苦悩からの心機一転、佐賀へ

 高校卒業後はプロ選手として国内外の大会へ積極的に参戦。しかし、ジュニアからもう一段レベルの高いエリート選手の中で思うような結果が出なかった。競技への取り組み方や練習方法などをゼロから見直すため、2019年に所属チームを離れ、「1年間だけ」と決めて単身オーストラリアへ。プレッシャーのないまっさらな状態でトライアスロンと向き合う中で、考え抜いた練習をする大切さや競技に打ち込める環境のありがたみを改めて感じた。帰国を意識し始めたころ、佐賀県のジョブサポ事業を通じて木村情報技術から声がかかった。競技に専念できる願ってもない環境を用意してもらったことで、佐賀行きを二つ返事で決めた。
 2020年4月から、同社所属アスリートとして国内での活動を再開。自身の技術が少しでも役に立てばと、社内の「トライアスロン部」や「早朝水泳部」の練習メニューを考え、指導や相談にも乗る。「普段は支えてもらうばかりで、少しでも社員さんの役に立てれば」と都合がつく限り一緒に練習している。

とちぎ国体で復活の3位

 練習環境は「どこの県よりもいい」と感じているが、不本意なレースが続く時期もあった。それでも自分を信じて、「支えてくれるみなさんのためにも結果を出したかった」。そして2022年10月の栃木国体。ついに結果を出した。3位のゴールを切る時には大粒の涙があふれ出した。多くの観客に迎えられた時、こみ上げる思いを抑えることができなかった。さらに、6位の池野みのり(チームサガスポーツピラミッド)とともに皇后杯も獲得するご褒美まで付いてきた。
 2024年のパリ五輪出場に向けて、まずはランキングやポイントを再び積み上げ、より大きな大会への出場権を得ることから始まる。日本選手権での入賞など一つ一つの目標をクリアすることで、その先のパリ五輪への道が見えてくる。そして、佐賀国スポでもう一度皇后杯を取りに行く。
 楽しくて、好きで始めたトライアスロン。「競技が終わる日まで、楽しく続けることができれば」と話すひたすらに明るい表情は、アスリートとして競技に打ち込める幸せを感じさせる。

松本 文佳 選手

競技:トライアスロン

まつもと ふみか

1995年、京都府京都市生まれ。中学進学後からトライアスロンを始め、2011年の日本ジュニア選手権B優勝。2012年アジアジュニア選手権で優勝し、同年の世界ジュニアトライアスロン選手権(ニュージーランド)で日本人として始めて優勝する。高校卒業後はプロとして活躍。2020年4月から木村情報技術所属。