OTANI Momoko
最高のスマイル届ける
もっと強くなる
「もっと強くなる」。10月にフランスで開かれた全仏オープンで準優勝に上り詰めた25歳の向上心は高まり続けている。逆境を力に変え、世界の猛者を次々に破り、世界の頂点に駆け上がろうと努力を続ける大谷選手。世界ランクも着実に上げ、東京パラリンピック出場にも近づいている。「東京パラで金メダル」。その目標に向け、日々まい進する。
栃木県出身の大谷選手がテニスボールを追いかけ始めたのは小学3年のころ。地元のテニスクラブで汗を流していた兄の影響だった。「プロテニス選手になって、いつかはオリンピックに」。大きな夢に向けて着実に力をつけていき、地元の強豪・作新学院高に進学した。3年生で初めて全国舞台を経験した。卒業後はスポーツトレーナーを志し「一線は退こう」。そう考え、東京都内の専門学校に進学した矢先、病気の影響で右下肢のけいれんが止まらなくなり、車いす生活を余儀なくされた。
「初めはふさぎ込み、外に出るのもいやだった」。大谷選手は当時をそう振り返る。企業への就職を考えたが、どの企業も条件に「大卒」が含まれることが多かった。「車いすでも通える大学に」。父が福岡県に単身赴任していたこともあり、西九州大(神埼市)を選択した。
負けず嫌いに火が付く
転機はすぐに訪れた。入学直後、福岡県飯塚市で開かれた「ジャパンオープン」を観戦した2016年5月、車いすテニス日本代表監督から「頑張ってね」と声を掛けられた。何げない励ましだったが、「何だか見返したい気持ちになった」と大谷選手。自他ともに認める負けず嫌いのハートに火がついた。
めきめきと頭角を現し、競技開始後約7カ月にして国内大会で準優勝に輝くなど成績を残し、東京パラリンピックの強化指定選手に選ばれた。その後も、アジア大会で銅メダル、国別対抗戦で団体銀メダル獲得に貢献した。大学を卒業後、地元へ戻る選択肢もないわけではなかった。そんな中で、古賀雅博コーチの指導を仰ぐため、佐賀県を拠点に活動を続けることを決めた。それだけではない。「佐賀は第二の故郷。まだ5年だけど、応援してくれる人がたくさんいて離れるのは寂しい」。佐賀への愛着も残った理由だ。
SSPアスリートとして
SSPトップアスリートに指定されている大谷選手。「SSPライジングアスリートやホープアスリートの目標となれるように」と責任を口にし、「県外の人にもこの取り組みを知ってもらいたい。そのために、自分が活躍して注目してもらう必要がある。役割を果たしていきたい」と力を込める。SSP構想の魅力は「ほかの競技の選手から刺激をもらえる。強くなればピラミッドの上に上がり、支援が手厚くなるので上を目指しやすい」と話す。
18年末には右手首を手術し、19年は長期間のリハビリを乗り越えた。パライヤーの20年はコロナ禍で多くの大会が中止になる中、集中力を切らすことなく練習に励んだ。その努力は結実し、9月の全米オープンで四大大会初出場を果たし、全仏オープンでは準優勝に輝いた。世界ランキングも7位に上げ、東京パラの出場権も大きく近づいた。それでも大谷選手は満足しない。「目標とするグランドスラム優勝はまだまだ先にある」。東京パラ、四大大会で最も輝くメダルを手にし、最高のスマイルを県民に届ける。
大谷 桃子 選手
競技:車いすテニス
おおたに ももこ
栃木県栃木市出身。
兄の影響で小学3年から競技に打ち込み、作新学院高では個人ダブルスでインターハイに出場。
車いすテニスでは2018年のアジアパラリンピック大会(ジャカルタ)で個人シングルス銅メダルを獲得し、19年の国別対抗戦(イスラエル)では団体戦銀メダル獲得に貢献した。
20年9月の全米オープンで四大大会初出場を果たし、同年10月の全仏オープンでは準優勝に輝いた。